12世紀まで遡る由緒ある神社

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 出世稲荷神社は、松江の領主が代々信仰した神社で、12世紀まで歴史を遡ることができます。 元は今の松江城のある亀田山、大昔は末次山と言っていましたが、その地にありました。末次の地を開拓するにあたり、農耕の守護神をお祀りしたのが始まりとされ、里人が信仰していました。

 鎌倉時代に入り、松江の里(末次の里)を地頭として支配した土屋六郎をはじめ、末次城主となった末次五郎清政や松江城を築城した堀尾吉晴、さらには江戸期に入ってからの松江城主、松平家に至るまで、代々この地を治めた人々も信仰していました。

 堀尾吉晴公が松江城を築城した際、当社は松江の守護神として、藩の細工所の敷地(現在の県民会館のエリア)の中に、新しくお宮を造営してお祀りしました。後を継いだ松平家の代々の殿様も同様にお祀りし、藩費にて神社の費用を賄っていました。

 明治の廃藩に伴い、土地が民有地になったことなどから、明治21年12月10日に現在の場所の寺町にお宮を遷しました。 当社は、「松江三大稲荷」に挙げられ、大変御利益があるということで広く知られ、開運招福、商売繁盛、病気平癒、厄除けなどを願う人々の信仰を集め、多くの方々が参詣になっています。また、開運出世に特に御利益があるということから、いつの頃からか「出世稲荷神社」という呼び名となり、合格成就を願う人々が多くお参りしてきました。 また、以前はこの地に「八百屋畠」があったことから、「八百屋畠のお稲荷さん」という愛称も持っていました。

 かつては、社殿をはじめ、諸施設の造営あるいは改修により、松江でも1、2を争う施設を有していましたが、昭和24年の松江白潟大火で罹災し、社殿、諸施設のすべてを失いました。戦後間もなくの時期で本格的な復興もままならず、都市計画による境内地の道路への収用もあり、未完成のままで長い年月を過ごしました。

 平成に入ってから、本格的な社殿造営、境内整備に着手し、平成9年秋の新社殿の造営、境内の美化整備を経て、わずかでも旧に復することがかないました。これは一重に広大無辺なご神威の賜物であると思われます。

 日本の伝統的精神や文化に興味を持ち、日本文化と日本人の心を全世界に紹介した、『知られざる日本の面影』『怪談(耳なし芳一、雪女など)』の著者・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、出雲地方に不思議な魅力を感じ、「神々の国の首都」と記しましたが、当社のご祭神もその神々の列にあって、懸命に生きる人たちの切実な願いをお聞き届けになっています。ご参拝になり、大神様と縁を結んでいただき、幸せを手にされますよう由緒の概略に合わせてご案内いたします。

 

ご祭神

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主祭神は、豊饒と商売・営業繁栄の神様「宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)」と、文武の神様として武士が崇拝した「誉田別命(ほむだわけのみこと)」です。
 また、合祀祭神として祀られている武甕槌神(たけみかづちのかみ)と経津主神(ふつぬしのかみ)はともに刀剣の神とされています。さらに、病気平癒の神様、大床主神(おほとこぬしのかみ)、水運・海運の神様、水波女大神(みずはめのかみ)を本殿にお祀りしています。

 武甕槌神と経津主神は、松江藩校修道館鎮守のご祭神でしたが、明治維新の政変による修道館の廃止に伴い、同じ敷地内の細工所にあった稲荷神社に合殿となり、寺町への移転に際し、主祭神と一緒に遷して、本殿に合祀されました。
 大床主神と水波女大神は、白潟本町の森脇邸にあった地主神社のご祭神でしたが、町の依頼により当社に合祀されました。
 
 末社として、荒神神社(須佐之男命すさのおのみこと)、琴平神社(大物主神おほものぬしのかみ)、地主神社(大床主神おほとこぬしのかみ)、また、合殿として天満宮(菅原道真公すがはらみちざね)と恵比須神社(事代主神ことしろぬしのかみ)もお祀りしています。

 これにより、当神社は、開運招福・商売繁盛・営業繁栄・五穀豊穣・病気平癒・大漁満足・海上安全・受験合格・良縁成就などの所願成就に霊験あらたかなことで知られています。

 

 

ご利益

開運出世・商売繁昌・営業繁栄・農耕開拓・心身健康・病気平癒・子授安産・漁業安全・受験合格・良縁成就など

 

由緒概略

昔、宍道湖と中海を望む末次(すえつぐ=松江の古名)は農耕も適さない湿地帯でした。そこで、里人は現在松江城のある末次山に農耕の守護神として
「宇賀御魂神」を、文武の徳によって郷内の秩序を整えるため「誉田別命」を祀りました。
その後この二柱の守護神の神徳により末次の地は次第に榮え、今の松江市の基礎が出来上がりました。
鎌倉になって、末次の地頭であった土屋六郎が篤く崇敬し、その後に末次城主となった末次清政や関ヶ原の合戦後出雲に封じられた堀尾吉晴公も篤く信仰しました。
吉晴公は末次山に松江城を築城するに際し、細工所(今の県民会館付近)にお宮を遷し、社殿を新造してお祀りしました。
以後、御祭神名により「稲荷神社」と称するようになり、明治になるまで代々の松江藩主の信仰を集めました。
そして、明治21年に参拝者の利便を考え、今の寺町に遷座しました。
 当社を「出世稲荷神社」と称するようになったのは、出世開運に非常にご利益があるというので、いつからともなく「出世稲荷さん」と呼ばれるようになったことによります。
「出世稲荷さん」と世間から親しまれるように、多くの人たちの信仰を集め、開運招福、商売繁昌、営業繁栄あるいは病気平癒、また厄除けなどのため沢山の人々がお参りのなっています。
こうしたご利益から、霊験あらたかな社として島根県松江市東本町の「船霊稲荷」、島根県松江市石橋町の「児守稲荷」とともに松江の三大稲荷の一つに数えられています。